HAPPY ENDING

私の日記です

2019年3月18日月曜日

バイト先に菓子折りを持って行ってきた。たった2ヶ月の短期バイトなのに、1ヶ月半で辞めることになってしまい本当に申し訳なかった。職員の皆様は優しく、また来年も是非働きに来て欲しいと言ってくれた。

図書館で癌の本をいくつか見てみた。涙が出る。

午後は家の片付けや掃除をしていたら一瞬で夕方になった。

夕ご飯はビビンバ、トマトと吉田牧場のカマンベールチーズ、玉ねぎジャガイモワカメの味噌汁。このまえ広島で買ってきた日本酒が、ものすごく美味しかった。来福のリンゴのやつ。

夕ご飯の片付けを夫とやっていると、日常が戻ってきた感じがした。私がこうして夫と平和に暮らしている間も、地元の家族とお母さんは裏の世界にいる。そのことを考えると、申し訳ない気持ちになる。

21日に地元に戻る。いつまでいることになるかはわからないけど、夫と離れて暮らすこと、何をするにも不自由な実家に滞在すること、パーキンソン病の伯母の世話や面倒な父の相手をしなければならないこと、みんなが揉めないように気を使うこと、交通費がたくさんかかることなど、考えるだけでストレス。

でもお母さんが一番辛いから、みんなで頑張るしかない。

2019年3月17日日曜日

昼前に実家を出て電車に乗った。夕方、帰宅。

往復で6時間半、4万円はかかる。

夫に、父妹弟の愚痴を一気に吐き出した。母の話をして泣いた。実家や病院にいるときはほとんど涙は出なかった。でも、家に帰って夫に話したら涙がどんどん出た。

地元への滞在はたったの5日間だけだったのに、すごく長かったように感じる。

夫は私がいなくてつまらなかったようだけど、気を使ってハッキリとは言わない。夫なりに頑張って家事をやっていたのがわかって、感謝と申し訳なさを感じた。

木曜日を目処にまた地元に戻る。いつまでになるのかわからないけど、実家に滞在して、母の病院に通う。伯母の世話も。

夫に申し訳ないけど、やるしかない。

 

退院前、母が窓から外の景色を見ながら「景色は同じだけど、裏側の世界に来てしまったみたいな気がする」と言った。本当に裏側の世界みたい。でも現実なんだ。

2019年3月16日土曜日

朝から母はイライラしていた。父の気遣いが的外れで自分本位なことに腹を立てている。

体の調子が良くないらしい。一度もなかった不正出血が今更あり、微熱も。胃液も吐いた。

午前中は、苦しそうに横たわりながらこれから在宅で闘病することの不安(自分の世話を誰がしてくれるのか、体調を崩したときどうすればいいのか)を呟いていた。母が不安を感じないために、私はどうしたらいいんだろう。

腰をさすってほしいというのでしばらくさすった。肩がこるというので揉んであげると、痩せて肩が薄くなっていた。

午後、熱が上がり不正出血も止まらないので妹が病院に電話をし、結局、救急車で運ばれることになった。

そして、再入院することに。こんなに急に弱ってしまうの?

食欲がなくなって、体がどんどん弱って、思うように動かなくなって、母は焦っている。悔しくてもどかしいのが伝わってくる。

 

父と妹と弟、全員のいいところと嫌なところがよく見える。もちろん感謝も尊敬もあるけど、家族じゃなかったら仲良くしたくないと思う。特に妹と父。根が優しくないというか、性格が曲がっている。恩着せがましい。

妹が病院や保険の手続きをすべてやってくれてありがたいとは思う。でも、他の人にできることもとにかくすべて自分がやらないと気が済まなくて、他の人に手を出されると気分を害する。めんどくさい。めんどくさい!めんどくさいから私は妹に感謝を伝えて煽てて妹の機嫌をとる。おかしいと思うことも言いたいこともたくさんある。でも堪える。ありがたいのは事実だから。私は私なりにお母さんを支える。お母さんだけがわかってくれればいい。父は妹に依存。妹はどんどんつけあがる。たぶんこれからずっと妹は「母の闘病に最も貢献した人物、それは私」みたいな美談を周りの人々に永遠に語り続けるんだと思う。はぁ、しんど。

弟は、妹の高飛車な態度に反発してすぐに怒り出す。怒りをコントロールできるようになってくれたらいいのに。弟も目立たないところで母にきめ細かい気遣いをしてくれている。根はいちばん優しいと思う。でも、すぐ怒るから怖い。

今、いちばんのストレスは妹かもしれない。

明日一度自分の家に帰って、バイト先に改めて話をしたり家のことを片付けて、また実家に戻ることになった。夫には本当に申し訳ないけど、しばらく夫と離れて暮らすことになる。

 

2019年3月15日金曜日

母退院。母が力をつけるためにステーキを食べたがったので、病院からの帰り道に親子5人でいきなりステーキを食べに行った。母は少しだけしか食べられないと言いつつ、この数日でいちばん多く食べていた。

今までに親子5人が揃って出かけたのは25年前に軽井沢旅行をしたたった一回だけ。母の癌によって今日25年ぶりに全員揃って外食、ドライブをする機会が持てた。皆楽しい雰囲気を作ろうと気を使ったので、喧嘩も言い合いもなく、普通の家族のように過ごせた。

母は大丈夫と言い続けていたけど、帰宅すると少し疲れた様子だった。入院していた間に放置されていた家の中のことが色々目につくらしく、イライラしていた。

妹が高飛車でムカつく。

私は疲れて早めに眠った。実家の猫が私の腕枕で眠った。

2019年3月14日木曜日

一日中、母の病室で過ごした。ほとんどの時間は元気に余命をネタにして笑っていたけど、たまにしんみりして涙を流す。

午後、親戚が数人お見舞いに来た。みんな母の姿をみて、とても末期ガンには見えないと戸惑っていた。

夕方、医者が来て、退院できると言った。すぐにできる検査は終わり、残り1つの検査まではまだ日数があるので、入院している意味がないらしい。

3月の終わりに残り1つの検査をして、その結果も含めて最終的な検査結果説明があって、そのあとおそらく化学療法を3週間ごとにやることになるそう。

化学療法っていうのは、抗ガン剤治療のことらしい。母は、先生に言われたことをやるしかないからね、と自分に言い聞かせるように言っていた。髪が抜けたらウィッグかぶればいいし!とか、やってみなきゃわからないし!とか。

退院することになり父は喜んでいるけど、母はこれから始まるんだよ、と呆れている。その通りだと思う。退院したらお母さんの食事もケアも家族でやることになるんだよ。実家にはお父さんとパーキンソン病の伯母しかいないのに。

2019年3月13日水曜日

朝早くに家を出て地元に戻ってきた。途中、池袋で親友と1時間だけランチ。親友が母のためにタカノのフルーツを買ってきてくれた。ありがとう。

父の車で病院へ。車の中で父が弟の悪口を延々言い続けるのでうんざりした。次から次へとよくあんなに出てくるよね。少し黙ってほしかった。

ベッドに横になっている母をみて、予想よりだいぶ弱っていると思った。声も小さい。少し熱が出ていたので心配だった。お腹は腹水で膨れていた。疲れた様子で、ウトウトしながらポツリポツリと話しをしていた。

病室に泊まるつもりだったけどそれはできず、代わりに病院の敷地内にある宿泊施設に泊まることができると教えてもらった。とりあえず2泊することにした。

父は夕方帰宅。私は消灯時間の22時まで母の病室で過ごしたあと宿泊施設に移動した。

母は自分の状況をまだ受け入れられていない感じもある。セカンドオピニオンや、手術の可否など、気になることや疑問があるみたい。それはそうだよね。

私もまだ現実感がないのかな。普通に接して、普通に話して、普通に母と過ごしている。まるでいつもと同じ。悲しいとかはほとんど感じない。でも、きっかけはわからないけどたまに胸が苦しくなってワーッとなりそうになる。

父は父なりに頑張っているんだけど、人の世話に慣れていないので的外れなところがあって、母は父にイライラしている。

2019年3月12日火曜日

大学病院で改めて専門の先生にみてもらった結果、やっぱり進むところまで進んでいるということだった。ステージ4の酷い方で、もう何もできないみたい。余命は3〜4ヶ月。血栓ができたりすると危険らしく、その辺の検査もあるので入院することになった。

弟から報告を受けて、手が震えてしまった。

夕方、妹から改めて詳しい話を聞いた。実感がわかないのに胸の奥が震える感じがして、気がおかしくなりそうになった。ワーッと叫んで外に飛び出してしまいそうだったし、空気が薄くて息ができなくなりそうだった。怖かった。昔もらった安定剤を飲んだ。

母から電話。声は全然普通なんだよね。無理してるのかな。こんな時なのにおどけて「私は全然元気なんだけど、先生から余命3ヶ月って言われたことだけがちょっと引っかかってるんだよね」などと言うので、笑ってしまった。ちょっとかい。お母さんも笑っていた。強いよなー。

明日実家に帰ることに決めた。